昭和50年07月13日 特別奉修委員



 神様の前には(?)漏らさず、いうならば赤裸々で無からなければならない。おかげを頂くこつだとまあ言われております。赤裸々であると言う事なぜおかげを頂くこつかというと、新な心が生まれて来るからです。もう本当にこんな事まで親先生に申し上げられないとか、言った様な事でもお取次を頂かせて貰う所から、あのなにというですかね、胸に持っておったものが赤裸々に出された時に、れは丁度お便所に行ってから出し難い所でも出さなければ、大小便でもいけない様にすっきりする所を感じる。
 だからおかげもやっぱりすっきりして来るのですけれども、結局あの新な新な心が頂けれるという、だからおかげが受けられるのである。今日の朝のご理解を皆さん頂いて下さってどうでしょうか。もういつも私がお話しておる様な事ばっかりを、今日は羅列したように思いますね。今朝のご理解それでいて、新たなご理解として頂けておるとするなら、私に新たなものが生まれておりますから。
 はぁあの話は何遍でん聞いた事のあるというて、感動も何ももしも湧かなかったとするならば、私に新なものが無い証拠ですどうだったでしょうね。新なものとして一つの新たな感動を呼ぶ様なものがもしあったとするならば、皆さんの心も新であった私も新なもので説いたから同じ言葉が同じ(?)じゃなくて、今までかつて味わった事のない程しのご理解として頂けれる。これは私の新なご理解。段々赤裸々に出してもなら赤裸々に出しても恥ずかしくない様なものが、段々出来る様にならなければなりません。
 けれども赤裸々なものがあの出されて来る。けれども人には聞かせられん。人には見せられないと言った様な事でもお取次を頂く時には、ここを一つ勇気を出しておかげを頂きませんと、新なものが生まれて来ません。新な物が生まれて来るからおかげを頂くという事になる。赤裸々なお取次を願う。赤裸々なそれはあの、おかげを頂くこつだと言われておりますけれども、何故おかげを頂くかというと、赤裸々なお取次を頂く事によって、新な物が生まれて来るからです。
 先程原さんが御届けをされますのに、もうこげなもんなあっちゃならんと思うのに出て来るという御届けをなさいましたけれども、この月次祭の時にちょっと時間が遅かったからバスに間に合わなかった人達もあった訳でしょう。それで福岡の古谷さんが、誰かその自動車に乗せて行って貰えんじゃろうかち、言いよりなさったけれども、まだ沢山福岡におんなさるから、福岡の方達が誰か乗せて行きなさるじゃろうと思いよった所が、息子さんの昌一郎さんがおばしゃん僕のに乗って下さいち。
 言うてから乗せたとこう云う事です。であくる日昨日あんた古屋さんあの、乗せてから何処迄送って行ったのちいうたら、駅まで送って行ったよち言うたち。なら原さんが言うて御座る事がですね。あんた福岡の人あげん御座るとに、あんたわざわざ福岡まで送って行く事がいろうかと言うたと言う訳です。皆さんならどうでしょうか。確かにやっぱりそう思いますよね。やっぱちいとあつかましかと思いますよね。
 そりゃ福岡の人に頼んで乗せて行って貰えりゃよかとに、わざわざ昌ちゃんの車にあの人が大人しいからち、言うてからあそこまで、駅まで送ってらわにゃ間に合わんと、例えば言いなさったに違いないです。だから送って行った訳です。だから昌一郎さんとしては、あんな人間がおとなしいから送っていくごとはなかったばってん、おばしゃまがあげん言うたから送っていったのかも分かりませんよ。
 けれどもあくる日お母さんがあの、はぁよかったねちいうとったら、前の晩から思うておったら、昌一郎さんの心まではぁよかごとしておったばいの、というてスキッとするですよ。あんたじゃろうか馬鹿ごとそげんあそこまで送っていく事がいろうかち。福岡の人はあそこになんぼでん残って御座ったのにとこう言うたち。だから本当に折角の親切でしておっても、無駄に成った様なあれがね、あの様な恐らく私はそういうものは生まれて来なかったと思うのです。
 昌一郎さんの場合。心よく送って行くごとなかばってん、厚かましく言われるから嫌じゃ言いきらじゃたけん送ったじゃろうと思うです。確かにそうだと思うです。でなかったらお母さんがあくる日そげな事したっちゃ、そげな事があろうもんか、これが僕の信心ばいち言うとるです。けれどもそれを言うておらん所を見るとです、やっぱ僕も一緒にほんなこっちゃ古谷のおばしゃまちゃ厚かましい人じゃあるち、自分もなら乗れちいうた時も、自分の前で言わっしゃるもんじゃけん。
 まあ聞き捨てもきらんなりに、なら叔母しゃま達乗らんのちこう言うたっちゃじゃろう。ね。だから一つもそこで信心でないものがです、そこで死んでしもうとる。それをなら、原さんがそれがよかったね、それが喜ばっしゃったじゃろうち、いうたら昌ちゃんの心までこう生きて来るだろうとこう思うです。そう言う事をです、原さんは赤裸々にお取次を頂いてお詫びをすると言う事なんです。
 そこにあの原さんが何時もあの新な信心を心に頂いておられる様に思うのですが、そういう赤裸々な所が素晴らしいですね。秘密主義はいけません。ここのご信心は。ですからどうでも一つ赤裸々なね赤裸々なお取次。そしてならそれを先生が例えば人の前で言うたっちゃ親先生が言わっしゃるとじゃから。親先生そげな事は遠慮して下さいなんてん、よく言う人がありますよ。
 御届けをしてから、これは先生あなたまでの話で御座います、(笑い)おかしな話です。それ程しにしか先生を信じておらんと言う事ですから。先生はそれをもう恥ずかしい事でも赤裸々な様な事でも仰られたとしてもです親先生がい い御座ると言う所に親先生を信じておると云う事になるのじゃないでしょうかね。私は赤裸々と言う所から生まれてくるのが新なものだと思うです。だからおかげを頂くこつというのはそこにあると云う事がまた言える訳です。